創作だの、美しい言葉だの、視点だの。。

なんだかんだ偉そうなことを言いながら、続かないブログ。

 

なにをするでもなく、生活が変わることもなく、最後の更新から2年半が経ってしまった。

まあまあ、プライベートでは忙しくしていたんですけどね。これを言うと無性に虚しく感じる。

 

知人連中には、「忘備録的な意味で書いている」なんて偉そうなことを言っているが、(言っていた。過去形。)

本心では、「誰かに見てもらいたい。同意を得たい。」という気持ちは少なからず心の隅っこには持っていたはず。はず。

 

ブログを6本書いて嫌になり、気持ちを奮いたたせ最終更新日からもう1本書いてまた嫌になり。そんな自分に嫌になり。

俺は何をやってるんだと。虚しくなったりもする訳ですが。

 

よくよく、考えてみると人間ってそんなもんだろう。

世の中なんて弱い人間ばかり。

 

あの清原だって覚せい剤に逃げたし、名司会者みのもんただってセクハラに逃げた。

強い人間なんていない、人間なんてそんなもんだ と、心を落ち着かせみると、

また、このブログを書き続けられるかも。と思い更新してみました。

 

また、どうせ、更新は止まりますが、人間なんてそんなもんなので、

それくらいの距離感で、当ブログとおつきあいいただけますと幸いです。

 

 

 

 

 

 

本の内容はこちら
普段はこのようなルポ物はあまり読まないんですが、

帯の「わたし、ハゲますか…?」というのがあまりに面白く感じたため、読了してみました。

大手育毛サロンに潜入して発毛メカニズムの解説や顧客を虜にしてしまう方法など業界の内幕をノンフィクションで体験しています。

読後思ったのは、それがただ見た目の問題だけになのに

並みの病気よりも悩んでいる人は多くて、しかも根本的な治療法が発見されていないので

こういうビジネスが発達しているのかなということ。

弱いものにつけいるというか、病気の治療法のように決まったものがないのが、

やれ発毛剤だ、サロンに行って毎回頭皮をキレイにするとかといった根拠のない方法がまかりとおっているんですね。。

 

育毛と発毛の違いについてもよくわかりました。

育毛…今生えている髪の毛を強くする、太くする

発毛…そもそもない髪の毛を生やす

基本的なことをわかっていませんでした、、無念。

確かにネットを見ていても、育毛剤のサイト発毛剤のサイトとでは扱っている商品が明確に分かれていますよね。

生える生えないの違いがあるので成分が違うのも当然か…

 

育毛発毛業界以外にもいえることなんですが、

広告費が多い=CMをバンバン打てる=その分かかっている原価が少ない=残る利益が多い

当たり前といえば当たり前ですが、そういうことなんですよね…。

CMをたくさん見るからいいものだ、人気があるものだ、と単純に考えてはダメ。

ただぼーっと見ているだけではなく利益がすごく残るからCMがたくさん出せるという勘ぐりも必要なのかもしれません。

単なる育毛業界のアングラさを垣間見れるだけではなく、ユーザーのリテラシーについても考えさせられる一冊でした。

小説を書き始めることはだれでもできる。

しかし、終わらせることのできる人間はそうそういない。

これは、よく言われることだが、たしかに、そのとおりだと思う。

理由を考えてみよう。

まず、まっさきに思いついたことは、自由度が狭められる、という点だ。

つまり、冒頭の一文は、なにを書いても良い。

当然、その段階ではいかなる制限も受けていないからだ。

しかし、文字が増えていくにつれ、そうはいかない。

どうしても、構築してきた世界観に影響を受けてしまうからだ。

そして、これは、汎用可能な道理でもある。

小説でいう世界観の構築は、つまり、個人でいえば周囲の環境の構築とも置き換えられる。

そして、そういった指向性は、ディフェンス力を高める効果があると想像できる。

この、ディフェンスというのがわりとポイントかもしれない。

ディフェンス力を高めようと思えば、どうしても、自分の周りに幾層ものバリアを張らなくてはならない。

人間が家を造り、さらにそのなかに自室を造る、という現象を考えれば、すこしはイメージしやすいかもしれない。

しかし、本来、自由が持つイメージはもっと身軽なものだ。

なにも纏っていないし、なにものにも縛られていない。

つまり、装飾を排除しようと指向して、初めて自由が得られるのだ。

もちろん、生きていく上で、ディフェンス力は不可欠だ。

しかし、それに特化するあまり、見えなくなるものもあるだろう。

ときどき、そんなことを考えて、身軽さを求めてみる。

そうすることで、一瞬、自由からこぼれ落ちた、一陣の風を感じることができるかもしれない。

 

 

文章をつくるときのコツみたいなものが、いくつかある。

これは、僕がフリーのライター業に従事している頃に気づいたことだ。

もっとも大事なことは、相手に伝わるように書くこと。

当たり前だと思うかもしれないけれど、これが最も難しい。

創作性を高めようとするあまり、読者を置いてけぼりにしてしまう。

これは、単に創作者のエゴであり、創作の堕落である。

そうならないためにも、相手の思考をトレースする必要がある。

これもなかなか難しいけれど、できないことではない。

すくなくとも、相手の視点に立つことで、文章はガラっと変わる。

そうしたアプローチを続ければ、かならず文章の質は上がる。

そしてもうひとつ。

書き上げた文章を一旦忘れる、というものだ。

これはだれでもいますぐできるので、わりと効果的かもしれない。

具体的には、書き上げた文章をすぐに添削しないで、しばらく間を空ける、という具合だ。

べつに一日でも良いし、一ヶ月でも良い。

要は、そうすることで一カ所に留まりがちな視点を変えやすい、という効果が得られる。

このふたつの例でもわかるように、なるべく多くの視点を持つことは物書きとしては絶対に必要な資質である。

客観性が養われ、抽象力を高める。

そうすることで、人生にもすこし変化が起こるだろう。

些細な変化を楽しむためにも、多様な視点を持っていることは悪くないのだ。

 

 

読書で得られる幸福とは、いったいどんなものだろう。

もちろん、ひとつではない。

それに、そもそも幸福とはなんたるかを追求しなくても、それを感じられさえすれば良い、とも思う。

人間はそれほどには鈍感だし、そして、知的なのだ。

さて、読書で得られる幸福である。

それは、読書をしている瞬間そのものがそうだ、というのが僕の考えだ。

つまり、創作に触れる行為はそれだけで価値がある。

いうまでもなく、受け手が翻弄され、魅了される余地がある作品なら、なおさらだ。

そしてこれは、訓練をすれば、あるいはそういう志さえあれば、だれもが得られる感覚である。

それだけ、優れた創作物は力強い。

洗練され、かつ、突飛なのだ。

そして、あわよくば自分もつねに創作家でありたい。

どんなものでも良い。

ものを創る、という行為をただ続けていたい。

もちろん、そうすることで、幸福が増幅すると信じているわけではない。

ただ単に、創作することそのものが楽しいのだ。

 

 

 

 

小説を読んでいると、たびたび、忘れられないフレーズというものに遭遇する。

それは名言のようなキャッチィなものでも良いし、あるいは、詩的で私的なものでも良い。

 

今は夏、彼女はそれを思い出す。

 

ミステリィ作家、森博嗣のデビュー作、「すべてがFになる」の冒頭の一文である。

そして、実はどんな名言至言よりもなぜか僕の心に残っているフレーズなのだ。

この一文を読んだときの衝撃を、いまでも僕は忘れられない。

冒頭の名言か私的なフレーズかでいえば、間違いなく後者に属すると思う。

派手さはないけれど、とにかく、洗練されている。

こんなに美しい言葉はないんじゃないか、とすら思う。

そう、結局のところ、小説家という人種は、美しい言葉を探すプロなのだ。

だから、優れた作品において、つねにディティールは優位だ。

ストーリィが上位にくることはない。

こうして、たまに実際に文章を作っていると、ブログレベルでも、美しい言葉を探そうとする自分が認識できる。

そんなとき、爽やかな初夏の風のように、過去に自分が揺さぶられた美しい言葉がさっとかけ抜けるときがある。

 

今は夏、彼女はそれを思い出す。

 

何度邂逅したことかはわからない。

だけれど、美しい言葉の力は風化しない。

孤独な風車のように、風に吹かれ続けているからこそ、見える景色がきっとある。

 

 

森博嗣、京極夏彦、綾辻行人、恩田陸、道尾秀介、殊能将之、有栖川有栖。

実はこれ、新刊が出れば絶対に買う作家リストだったりする(頼むよ殊能センセーw)。

で、だ。

僕のなかの七賢人とも言えるこの布陣に、先日八人目を迎え入れることになった。

サラッといこう。

森見登美彦、その人である。

著書コンプリートリストを見てもわかるように、基本的にはミステリィ作家だと認知されている人が多いなかで、森見登美彦はなかなか異色のメンバだと思う。

ジャンルについての意見は以前書いたから割愛するとして、まあ、それを抜きにしてもやっぱり異色だろう。

正直、「太陽の塔」はしっくりこなかった。

ただ、次に読んだ「四畳半神話体系」が凄かった。

そこで切れの良いジャブを喰らい、脳みそが揺れていい感じになったところで「夜は短し歩けよ乙女」だ。

完膚なきまでKO、万歳仰向けである。

森見登美彦の魅力は、なんといっても文章力だ。

小説家という職業上、これがいかに凄いことか。

小説というのは、微小な文章の集合なのだ。

そのパーツがひとつひとつ凄いのだから、もう凄くて凄いのである。

そういえば、文章力のことを筆力というけれど、いまどき、筆で小説を書いているような人間っているのだろうか。

言葉はいまさら言及するようなことではないけれど、時代とともに変化するものである。

なので、これからは「打鍵力」としよう。

急に文学っ気が影を潜めたような気もするけれど、全然問題ではない。

打鍵力のある文豪。

このムキムキな字面、どうでしょう?

 

 

 

 

 

日本はそもそも、「キャラ萌え」の文化らしい。

最古の文学「源氏物語」がそもそもそうだ、という理由かららしい。

さらっと書いたが、モノ凄く面白い仮説だと思う。

「キャラ萌え」の反義語は「物語萌え」だそうだ。

前者がキャラに感情移入し、そこから世界を作り出す一方、

後者はストーリィ自体を世界だとみなす。

その差がどこにあるのかというと、さて、大して違いはないと思う。

すくなくとも、読み手にとって「キャラ萌え」であることで思い当たる不都合はない。

まああえて言うなら誤読しやすい、くらいか。

もちろん、誤読は読者にとってけっして不幸な読み方ではない。

むしろ一番幸せな読み方、とすらいえる。

話を戻して、「キャラ萌え」。

小説ではないが、例えでよくピックアップされるのが、「エヴァ」と「ガンダム」だ。

前者がキャラ萌え、後者がストーリィ萌え、となる。

詳しい話は次回にするとして、

エヴァとガンダム、なかなか秀逸な例だと思う。

ではでは。

ミステリィが好きだ。

というのも、この世にある小説はどれもミステリィだと思うからだ。

小説に限らず、だから、ジャンルで分けるという行為に馴染めない。

そこにどんな意味がある?

せいぜい、広告を出しやすいとか、

帯のコピィにでかでかと書きやすいというくらいだ。

さて、ミステリィだけど、

実のところ、謎解きに関心はない。

もっといえば、トリックなんてどうでも良い、とすら考えている。

断言してしまうけれど、ミステリィの価値はそんなところには存在しない。

たとえば、

希代の名作、「ハサミ男(著 殊能将之)」をただのオチものだと思っていないだろうか?

もし、仮にあの魅力的なトリックがハサミ男の価値のすべてなら、話は簡単だ。

読む前にだれかに聞けば良い。

わざわざ長い時間をかけて冒頭から読む必要がないのだ。

たしかに、独創性に満ちあふれたトリックは、

それだけで素晴らしいのかもしれない。

クリスティの「アクロイド〜」なんてまさにそうだろう。

あの方法を思いついた瞬間、クリスティは間違いなく天才だった。

けれど、あれだって、僕はオチをさきに知っていた。

たまたま、ネットかなにかで情報を得てしまい、

あの世紀のトリックとノーガードでは対峙できなかった。

しかし、それによって作品の価値が下がることはなかったと断言する。

僕のなかでは、この実体験がすべてで、いまも変わっていない。

では、ミステリィの価値はどこにあるのか。

それを問うことにこそ、価値があるのかもしれない。

ただそんな予感だけに自分を傾けながら、

今日も僕はミステリィを読む。

 

小説の魅力って、いったいなんだろう。

ダイナミックなストーリィ?

愛らしいキャラたち?

洗練された会話?

もちろん、そのどれもが、小説に必要なアイテムだとは思う。

しかし一方で、本質はそこにはない。

なぜなら、これらはすべて例外なくパーツであるからだ。

人生の本質が個人の過去や未来に存在しないように

パーツに本質は宿らない。

では、どこにそれは存在するのか?

それに触れたいと望む、私たちの意志にこそ存在するのだ。

思考の飛翔をイメージしながらどこまでも駆け上がる。

滑らかな春の早朝、ふと空を見上げるように、自由の風を感じる。

そんな崇高な視線のさきに、きっと本質は存在する。

さあ、一緒に飛んでみませんか?